演劇「こころのなかに」、デレクションの日々

ゴン太

2009年04月27日 23:53

とある演劇のビデオを見ている...........いまから、6年前のことだった。

 私が北海道北見市に在住している時、中学生の友人であったK君、K君とは、通っていたスポーツクラブによく親と来ていたかたである。そのK君とは、一緒に飯を食いに行ったり、温泉に行ったりして家族とも親交があった。

 2003年6月位、私に中学校の文化祭で行う演劇をやるので、図書館に行って、演劇用の台本を何冊か借りてきてほしいというお願いがあった。当時彼は、図書館の会員カードを持っていなかった。何冊か借りてきて、K君は中身に目を通したが、納得いかないものだった、私が「K君が元ネタを書いて、私がパソコンを使用して私も脚本と脚色して台本にする」という案を彼にふってみた、彼は少し待ったが、快諾した。

問題は、中身だった。

丁度そのころ、私が別のイベントで私が所属していたボランティア団体でミニラジオをやろうという企画が進行していて、そのときにそのボランティア団体というのが全国にあって、私がその団体の掲示板やメールに「良いアイディアないですか?」と各所に打診をしていたとき、沖縄から行ってもいいですよという返事が来た、交通費は自腹でくるという事だった。

そんなこともあって演劇の中身は、「沖縄戦」にしようと決めた。とはいっても、私が生まれる前の事だから私自身体験した事が無い、架空設定で作り上げようとなった。それが6月の末であって、本番は10月2日、3ヶ月を切っている。それから毎日K君が私のアパートに来て、基本的な構想を練り上げてA4用紙10枚に渡って設定登場人物や台本をペンで書き上げていた。

 彼が書き上げた台本を私がパソコンで起こしていくときに、彼の感性に私の感性を注入して、15枚ほどのプロット(第1稿)が完成した。それから5日間位して、K君が学校のクラスで読み合わせをした時、「コレじゃあ弱い」といわれてしまったそうだ。私にすぐに連絡が来て、「もっと話を膨らませてください」という注文だった。とことん膨らませてやろうと感じ、私はすぐに執筆活動に取り掛かった、当時私も昼間仕事をしていたので、執筆は、夕方~深夜にかけて4時間くらいパソコンに向き合っていた。

 私の中で2つのコンセプトが執筆をしながら思いついていた、それは「リアル」と「ナチュラル」。「リアル」というのは、かなりの生々しさ、戦争物の演劇を作る際、本来ならば血糊という物が手に入れば良かったのだが、私はありきたりのケチャップだけではモノ足りずにそこに、トマトホールとひき肉を使用してみようかと提案した。この「リアル」というキーワードには、もうひとつの「リアル」も含めていた、それは「恋愛」。どの時代においてもこれはハズセナイと感じたからであった、劇中に「接吻」や「お姫様抱っこ」をを入れた官能的な部分も取り入れた物にしようと思い一応台本を作り上げた。結果はK君が「何考えているんです
か!」、私の中でやっぱりなと思った。そりゃそうだ、夜中の23時~2時くらいにかけて執筆していれば頭の方もユルくなる、K君協議して「お姫様抱っこ」だけは採用となった。

 結果的にA4用紙15枚だけだった台本は、45枚に増えた。そしてK君はクラスで台本の読み合わせをした、そうしたら今度は全て演じたら2時間30分かかるという事だった。演劇の設定時間は各クラス1時間という持ち時間だった。しかし、私が作ったその台本は、一部の部分を削除するとつながらなくなる知恵の輪状態にしてあった、K君クラスで添削を任せた。

 K君は、当時中学3年生、受験も控えていた。当然沖縄戦というと米兵が出てくる、私は米兵役の生徒にこういった「受験もあることだから米兵役は、全て英語でやってくれ」と言い放った。もちろん台本は日本語で書いてある、A4用紙1枚の日本語で書いてあるセリフを英語に直すとA4用紙3枚以上になるという問題も発生したが、そこは受験生。英語の勉強だと思って必死にやっていた。

 もうひとつの「ナチュラル」というのは、自然体、なすがまま。劇中でリアクションをとらざるえない場面がある、そのとき私は「中途半端にやるな」、叩くのならリアル叩け、その役に入り込めとK君のクラスの人にデレクションを行った。そして、もうひとつデレクションをしたことがある、「壇上のステージだけが、舞台ではない。演劇会場の体育館自体がステージ」と言った、走り回るの良しと考えたからである。

 さらに、劇中のBGMもコダワッた。設定舞台が沖縄ということだっので、沖縄の音楽を使用せず、私が当時良く聞いていた上妻宏光のセカンドアルバム「BEAMS」から流用した。それだけでなく、芸能山城組やぼくらの七日間戦争のサントラまで使用した。しかし、BGMのキュー出しがうまくいかないという問題が出た、それはK君のクラスだけの問題ではなく別のクラスもその問題があった、ステージの横の部屋にある放送ブース壁が仕切っていて、どんなに大きな声で演じても、声が届きにくい。私は前段で話したミニラジオ方式を行った、ステージサイドにマイクを4本様々な角度や高さに設置して、マルチチャンネルミキサーに接続してマスターをラジオの送信機に入れ、ステージ横の放送ブースでそのラジオを受信してBGMを的確に流すというものだった。これは見事に大当たりした。このシステムは、K君のクラスだけだった。

そして、この演劇は、59分53秒で1時間という制限枠にぴったり入り込んで、金賞を受賞した。そのときK君は、大粒の涙を流してガッツポーズをしていた。

それから2年後、たまたま、市主催のイベントでK君の同級生と知り合った。K君のその舞台の事はよく覚えていて、実は私がバックでやっていたんですと言う事も話したし、BGMの件も話したら「それ絶対卑怯だぁ~」と嘆いていた。

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